その太陽は何一つとして特別な物ではない。
毎日当たり前の様に空にあり、夜には姿を隠し、また次の朝東から顔を出す、いつもと変わらない、太陽だ。
太陽が「西へ沈む」という言い方はある意味自己中心的だ。
“そう視える”だけなのだから—。
しかし、ボクたちは地球が時速1700kmで廻っている(赤道地点)コトも、それが年に1/100,000秒ずつ遅くなっていっているコトなど気にしながら夕日を見たりしない。
そこにあるのは、ただ単純な感動や、哀愁、はたまた、蕭々とした惜別なる想いなどで、地学的な知識や思考力といったものの入り込むスペースは残っていない。
そんな一日でもっとも感情が動かされる夕暮れという時間帯、その同じ太陽は山の向こうだったり、ビルの隙間だったり、そして、海の水平線へと沈んで行く(様に視える)。毎日毎日、西の彼方に沈んで行く(様に視える)。
あまりに日常的なその光景は、よもすれば、当たり前過ぎて、それが毎日西へと沈んで行く(様に視える)コトすら忘れてしまうくらいに、それは毎日毎日繰り返される(地球が廻り続けている)。
ボクは、そんな夕暮れのプレシャスな時間を撮影する事が大好きだ。
毎日毎日繰り返される、、、と表現したこの地球と太陽の織りなす日々の“行事”は、毎日、少しずつ、気にして、注意深く観察しても、普通じゃわからない程度に、でも確実に変化していっている。それは地球の自転が遅くなりつづけているからではなく、1年を通して、地球と太陽の位置関係が変わっていくコトと、そして、日々大気のコンディションが変わっていくからである。
太陽の沈む(様に視える)場所、夕日の色、空の色、雲の数、量、空気の冷たさ、湿度、肌触り、香り、風の音、、、。たくさんの要素がそれを彩り、毎回毎回違った演出を見せてくれる。
だから、日暮れ時の撮影は飽きるコトがない。
今回、ボクは、その日暮れ時を見るため、ただそれだけのために片道1時間以上の道—それも森林の中に設けられた、細く、足下の危うい一本道—を歩く事に決めた。(そしてその道は、市街地から車で5時間走った先にある)
夏なら、8時か9時頃に西を見れば見る事のできる、同じ太陽、同じ空。
でも、“そこ”でしか視るコトの出来ない何かがきっとある。
その思い一つで、ボクはかばんに荷物を詰め、車を走らせた—。
つづく。。。。
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